ポピュラーピアノ/エレクトーン

ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(Heinrich von Herzogenberg 1843?1900 オーストリア)は、ウィーンで学びベルリン高等音楽院作曲家教授としてエセル・スマイスらを育成した。ブラームスの崇拝者であり、ライプツィヒ・バッハ教会を創設した人物。本作品は全曲続けて演奏しても良いし、各曲を選択演奏することもできる。親しみやすい旋律で表情豊かなワルツ集。レベル面でも易しく取り組みやすい作品。全6曲(6曲各曲にタイトルは無い)。初?中級

(解説より)  ヘルツォーゲンベルク自身のブラームスへの崇拝、そして妻のエリーザベトを含めた3人の親密な交流によってからか、十分に個性的で魅力的なヘルツォーゲンベルクの作品群が、単にブラームスの亜流と見なされていた時代は、ようやく終わりを迎え始めたようだ。  ヘルツォーゲンベルクは、その公式な氏名Heinrich Picot de Peccaduc(ピコ・ド・ペカドュク), Freiherr von Herzogenbergが示すように、フランス革命時にボヘミアに移住したフランス貴族の末裔で、オーストリア帝国の収入役のアウグスト・ペーター・フォン・ヘルツォーゲンベルクを父として、1843年にグラーツで生まれた。62年にウィーンに出て、ウィーン大学で法学、政治学、哲学を学ぶが、やがて宮廷楽長で音楽院教授のオットー・デッソフに師事した。同じ年の9月にウィーンに出てきた10歳ほど年上のブラームスと知り合ったのは、デッソフ邸とされる。ブラームスはヘルツォーゲンベルクの才能を認め、64年3月26日付けで、この青年の「作品1」を出版するよう、リーター=ビーダーマンに紹介状を書いている。68年、ヘルツォーゲンベルクは、かつて短期間、ブラームスのピアノの生徒であり、たぐいまれな美貌と音楽的才能、そして才気を謳われたエリーザベト・フォン・シュトックハウゼン(1847?92)と結婚した。ブラームスがエリーザベトのレッスンを短期間で打ち切ったのは、この美少女の魅力に強く惹かれるのを恐れたためとする説もある。結婚後、夫妻はグラーツに戻ってヘルツォーゲンベルクは作曲活動を続け、70年には劇的カンタータ『コロンブス Op.11』が、72年には大管弦楽のための交響曲『オデュッセウス Op.16』がグラーツで初演されており、これら2曲の大作からはワーグナーの影響がうかがえる。72年、ライプツィヒに移ると、バッハへの深い共感から、バッハの伝記で名高いフィリップ・シュピッタらとともに、75年にライプツィヒ・バッハ協会を設立し、後に会長となった。ライプツィヒ時代には、イギリスの女性作曲家、エセル・スマイスに個人教授をしている。85年にはベルリンに移り、作曲の教授として高等音楽学校に迎えられたが、92年に妻を心臓疾患で亡くし、98年には持病のリューマチの悪化によりすべての役職から退き、1900年、ヴィースバーデンで死去した。  1874年から数年の間、ブラームスがライプツィヒに赴く際は、ヘルツォーゲンベルク邸に滞在するのが常であり、ヘルツォーゲンベルク夫妻とブラームスの間の、残された数多くの手紙は、3人の作曲家(エリーザベトもまた優れた作曲家であった)の、互いの作品への見解だけでなく、同時代の音楽界の様子がよく分かる興味深い内容を豊富に含んでいる。  ヘルツォーゲンベルクの作品は、交響曲、大規模な声楽作品、ヴァイオリン協奏曲、20曲ほどの室内楽曲、多数の歌曲とピアノ作品、オルガン曲など、歌劇以外の幅広いジャンルに渡り、作品番号を持つものだけでも110近く、作品番号のないもの(WoO)も50以上残している。ピアノ作品では、ともに演奏時間15分ほどの『ドン・ジョヴァンニのメヌエットによる変奏曲 Op.58』と『ソナタ風幻想曲 WoO 13』以外はほとんどが小品で、細かく数えればその数は60を超える。  ピアノ・デュオ作品もまた多く、1曲の2台ピアノ作品、『主題と変奏曲 Op.13』(1869)のほか、作品番号のあるものだけでも8曲の連弾曲を残しており、これらは4曲の変奏曲と4曲の小品群である。このうち、『ブラームスの主題による変奏曲 Op.23』(1875)は、ブラームスの『6つの歌 Op.7』の5曲目の、寂しく暗澹とした『喪に服する女』を主題とする8つの変奏とコーダから成り、対位法的にも極めて精緻な作品。1876年8月1日付けの、ヘルツォーゲンベルクからブラームスへの手紙には、「今回送った作品は、あなたの主題による変奏曲の史上初の作品」と書いていて、互いにそれとは知らずに、妻のエリーザベトも同日付けで、この変奏曲に触れた手紙をブラームスに出している。ブラームスのOp.23は連弾作品の傑作、『シューマンの主題による変奏曲』(1861)であり、当然、ヘルツォーゲンベルクは自作と番号を合わせたに違いなく、相当な自信作であったろう。だが8月20日のブラームスからの返事では、婉曲な書き方だが、この変奏曲が気に入らなかったようで、「幻想的変奏曲と呼ぶべきで、厳格に展開された変奏曲と区別してほしい」としている。「変奏曲の大家」としてのブラームスが、その形式を非常に厳格なものと考えていたことは、ブラームスの唯一の作曲の正式な弟子とされるグスタフ・イェンナーも後に報告している。しかしクララ・シューマンはブラームスへの同年8月14日の手紙の中で、「この変奏曲の思慮深さに驚嘆させられた」(この後の文で批判もしているが)と伝えている。ヘルツォーゲンベルクの変奏曲の真価は、ブラームスの価値観とは異なり、自由で幻想的な雰囲気にあるに違いない。ヘルツォーゲンベルクは変奏曲を得意としており、ほかに『変奏曲 ホ長調 Op.84』(1895) 、『変奏曲 変ロ長調 Op.85』(1895)、『変奏曲 ニ短調 Op.86』(1896)を残している。連弾作品の小品群は、2集全6曲の『Allotria(アロットリア、珍奇なもの) Op.33』(1881)、 全6曲の『ワルツ集Op.53』(1886)、全16曲の『Dainu Balsai(ダイヌ・バルサイ、歌声)リトアニア民謡 Op.76』(1892)、全7曲の『ワルツ集 Op.83』(1895)である。ヘルツォーゲンベルクによる、これらの親しみやすく効果的で、しかも緻密で高度な手法によるロマン派のデュオ作品群が、これまでほとんど知られていなかったのは不思議というほかはない。ブラームスがヘルツォーゲンベルクの作品を無視したのは、過去に強く惹かれた女性を娶った男への屈折した複雑な感情ゆえとする説もあり、こうしたブラームスの態度が今日までヘルツォーゲンベルクの作品の普及を妨げた一因であるとしたら残念でならない。
ピアノ連弾のための ワルツ集 作品53

ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(Heinrich von Herzogenberg 1843?1900 オーストリア)は、ウィーンで学びベルリン高等音楽院作曲家教授としてエセル・スマイスらを育成した。ブラームスの崇拝者であり、ライプツィヒ・バッハ教会を創設した人物。本作品は全曲続けて演奏しても良いし、各曲を選択演奏することもできる。親しみやすい旋律で表情豊かなワルツ集。レベル面でも易しく取り組みやすい作品。全6曲(6曲各曲にタイトルは無い)。初?中級

(解説より)  ヘルツォーゲンベルク自身のブラームスへの崇拝、そして妻のエリーザベトを含めた3人の親密な交流によってからか、十分に個性的で魅力的なヘルツォーゲンベルクの作品群が、単にブラームスの亜流と見なされていた時代は、ようやく終わりを迎え始めたようだ。  ヘルツォーゲンベルクは、その公式な氏名Heinrich Picot de Peccaduc(ピコ・ド・ペカドュク), Freiherr von Herzogenbergが示すように、フランス革命時にボヘミアに移住したフランス貴族の末裔で、オーストリア帝国の収入役のアウグスト・ペーター・フォン・ヘルツォーゲンベルクを父として、1843年にグラーツで生まれた。62年にウィーンに出て、ウィーン大学で法学、政治学、哲学を学ぶが、やがて宮廷楽長で音楽院教授のオットー・デッソフに師事した。同じ年の9月にウィーンに出てきた10歳ほど年上のブラームスと知り合ったのは、デッソフ邸とされる。ブラームスはヘルツォーゲンベルクの才能を認め、64年3月26日付けで、この青年の「作品1」を出版するよう、リーター=ビーダーマンに紹介状を書いている。68年、ヘルツォーゲンベルクは、かつて短期間、ブラームスのピアノの生徒であり、たぐいまれな美貌と音楽的才能、そして才気を謳われたエリーザベト・フォン・シュトックハウゼン(1847?92)と結婚した。ブラームスがエリーザベトのレッスンを短期間で打ち切ったのは、この美少女の魅力に強く惹かれるのを恐れたためとする説もある。結婚後、夫妻はグラーツに戻ってヘルツォーゲンベルクは作曲活動を続け、70年には劇的カンタータ『コロンブス Op.11』が、72年には大管弦楽のための交響曲『オデュッセウス Op.16』がグラーツで初演されており、これら2曲の大作からはワーグナーの影響がうかがえる。72年、ライプツィヒに移ると、バッハへの深い共感から、バッハの伝記で名高いフィリップ・シュピッタらとともに、75年にライプツィヒ・バッハ協会を設立し、後に会長となった。ライプツィヒ時代には、イギリスの女性作曲家、エセル・スマイスに個人教授をしている。85年にはベルリンに移り、作曲の教授として高等音楽学校に迎えられたが、92年に妻を心臓疾患で亡くし、98年には持病のリューマチの悪化によりすべての役職から退き、1900年、ヴィースバーデンで死去した。  1874年から数年の間、ブラームスがライプツィヒに赴く際は、ヘルツォーゲンベルク邸に滞在するのが常であり、ヘルツォーゲンベルク夫妻とブラームスの間の、残された数多くの手紙は、3人の作曲家(エリーザベトもまた優れた作曲家であった)の、互いの作品への見解だけでなく、同時代の音楽界の様子がよく分かる興味深い内容を豊富に含んでいる。  ヘルツォーゲンベルクの作品は、交響曲、大規模な声楽作品、ヴァイオリン協奏曲、20曲ほどの室内楽曲、多数の歌曲とピアノ作品、オルガン曲など、歌劇以外の幅広いジャンルに渡り、作品番号を持つものだけでも110近く、作品番号のないもの(WoO)も50以上残している。ピアノ作品では、ともに演奏時間15分ほどの『ドン・ジョヴァンニのメヌエットによる変奏曲 Op.58』と『ソナタ風幻想曲 WoO 13』以外はほとんどが小品で、細かく数えればその数は60を超える。  ピアノ・デュオ作品もまた多く、1曲の2台ピアノ作品、『主題と変奏曲 Op.13』(1869)のほか、作品番号のあるものだけでも8曲の連弾曲を残しており、これらは4曲の変奏曲と4曲の小品群である。このうち、『ブラームスの主題による変奏曲 Op.23』(1875)は、ブラームスの『6つの歌 Op.7』の5曲目の、寂しく暗澹とした『喪に服する女』を主題とする8つの変奏とコーダから成り、対位法的にも極めて精緻な作品。1876年8月1日付けの、ヘルツォーゲンベルクからブラームスへの手紙には、「今回送った作品は、あなたの主題による変奏曲の史上初の作品」と書いていて、互いにそれとは知らずに、妻のエリーザベトも同日付けで、この変奏曲に触れた手紙をブラームスに出している。ブラームスのOp.23は連弾作品の傑作、『シューマンの主題による変奏曲』(1861)であり、当然、ヘルツォーゲンベルクは自作と番号を合わせたに違いなく、相当な自信作であったろう。だが8月20日のブラームスからの返事では、婉曲な書き方だが、この変奏曲が気に入らなかったようで、「幻想的変奏曲と呼ぶべきで、厳格に展開された変奏曲と区別してほしい」としている。「変奏曲の大家」としてのブラームスが、その形式を非常に厳格なものと考えていたことは、ブラームスの唯一の作曲の正式な弟子とされるグスタフ・イェンナーも後に報告している。しかしクララ・シューマンはブラームスへの同年8月14日の手紙の中で、「この変奏曲の思慮深さに驚嘆させられた」(この後の文で批判もしているが)と伝えている。ヘルツォーゲンベルクの変奏曲の真価は、ブラームスの価値観とは異なり、自由で幻想的な雰囲気にあるに違いない。ヘルツォーゲンベルクは変奏曲を得意としており、ほかに『変奏曲 ホ長調 Op.84』(1895) 、『変奏曲 変ロ長調 Op.85』(1895)、『変奏曲 ニ短調 Op.86』(1896)を残している。連弾作品の小品群は、2集全6曲の『Allotria(アロットリア、珍奇なもの) Op.33』(1881)、 全6曲の『ワルツ集Op.53』(1886)、全16曲の『Dainu Balsai(ダイヌ・バルサイ、歌声)リトアニア民謡 Op.76』(1892)、全7曲の『ワルツ集 Op.83』(1895)である。ヘルツォーゲンベルクによる、これらの親しみやすく効果的で、しかも緻密で高度な手法によるロマン派のデュオ作品群が、これまでほとんど知られていなかったのは不思議というほかはない。ブラームスがヘルツォーゲンベルクの作品を無視したのは、過去に強く惹かれた女性を娶った男への屈折した複雑な感情ゆえとする説もあり、こうしたブラームスの態度が今日までヘルツォーゲンベルクの作品の普及を妨げた一因であるとしたら残念でならない。
ピアノ連弾のための ワルツ集 作品53

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